最高に謎映画「聖なる鹿殺し」を大胆考察!全ての謎を解明!〈2〉

映画「聖なる鹿殺し」の考察<1>に続きまして、<2>をお届けします。

この映画「聖なる鹿殺し」は私に、映画やドラマは素晴らしい・・・と思わせてくれ、多くの奇怪な謎を与えてくれました。

かずかずの視聴者を「?」な世界に誘い、迷路に迷わせた今世紀最大の「ラビリンス映画」です。

今回は私の私的解釈ですが、この映画「聖なる鹿殺し」の考察について<1>に引き続き、<2>を紹介したいと思います。

映画「聖なる鹿殺し」を斬新に考察!真相はマーティンの・・・

考察<1>に引き続き、私がたてた仮説を紹介します。

ここから<1>の続きになります

マーティンは、スティーブンの懐に上手に入り込み、家族を紹介してもらうまでの関係になりました。

ここから私の仮説が始まります・・・。

それは、真相の場面がすべてカットされている、ということです。

※⬆の部分は違う言葉で<1>で説明していますので、気になるかたはコチラを覗いてみてください。

まず、スティーブンを油断させ、家に上がり込み、子供達だけの3人になることに成功したマーティン。

まずマーティンが味方につけたのはキムでした。

包容力がありセクシーな魅力で、マーティンはキムを骨抜きにしたのです。

ボブには「良き兄」のような素振りで心を許させます。

そこでキムとボブに、マーティンは【あるゲーム】を持ちかけます。

そのゲームは・・・

『どっちが両親に愛されているかゲーム』

です。

まずボブの足が動かなくなります。

その時の家族の反応を、キムもボブも楽しんでいたのではないでしょうか?

そして今度はキムの足が動かなくなります。

この時の、母親アナの反応が、ボブの時とキムの時で【差】があったのです。

キムは面白くなくなり、マーティンに携帯電話で相談。

しかもキムの足が動かないことに怒り狂ったスティーブンが、マーティンの母親を襲いかねない勢いです。

そこでマーティンが

「キムは普通に動いてもいいよ」

と、指示を出していたらどうでしょうか?

そのあと、キムは普通に歩けるようになったのも、この仮説ですと納得できます。

では、何故子供達はマーティンの言いなりになったのでしょうか?

キムもボブもまだ子供です。

尊敬する父親がつれてきた、外の世界からの賢い男の子に、とても魅力を感じたのです。

育ちの良いキムとボブだからこそ、人を疑うという気持ちを持たず、操られていた・・・考えられます。

だからこそ!この段階でスティーブンは、家族に真実を話す必要があったのです。

ここで真実を話せば、マーティンが【家族の敵】である!と理解され、キムもボブも、マーティンの言うことを聞く必要はない、と判断します。

しかし、スティーブンは言えなかった。

そして、あろうことかキムと連絡をとる携帯電話もアナが没収してしまいます。

キムの心理の移り変わりをマーティンが察することができたら・・・ゲームを中断することができたのです。

このキムの心理の移り変わりとは?

それは、キムが自分の存在肯定のためにボブを殺しても構わない、と考えることです。

そして、マーティンと連絡がとれぬまま、物語がすすみ・・・。

アナは、マーティンの父親が死んだ理由の真相を知ります。

マーティンの父親は、スティーブンが飲酒して手術したために、医療事故で亡くなったのでした。

アナはスティーブンを責めるものの、実生活が変わるような行動はしません。

アナとスティーブンは、なんとか【水面下】で、事態の収拾を図ろうという意見だけは一致していたのです。

つまりこのアナの行動で、アナもスティーブンと変わらない人種だと言うことがわかります。

結局、誰もマーティンの父親、残された家族に謝罪する気持ちを表さなかったんです!

この【保身】の心が、人間の汚さであり、この映画のテーマなのではないでしょうか。

「聖なる鹿」を殺して生け贄として捧げる・・・ボブを殺してマーティンに差し出し、マーティンを【神】に見立てることで、その行動は謝罪になるのでしょうか?

マーティンは自分達よりも「上の存在=神」だと。

そんなことをマーティンは求めているわけではないのです。

謎の悪役マーティンが求めていたこととは?

まさに今回、怪演を果たしたマーティン役のバリー・ゴーン。

彼が演じていたマーティンがスティーブンに求めていたこと・・・それは。

スティーブンが家族と社会に誠実に真実を話し、職を退き、マーティンに謝りつづけること

だと思いました。

結局スティーブンは、アナにはバレましたが、自分で真実を告白したわけでもなく、もちろん子供達にも偉いお医者さまなんだぞ!と、偉そうな姿勢を崩さないまま、ボブを殺したのです。

そしてもちろん、そんな結末はマーティンが求めた結果ではありませんでした。

マーティンは、スティーブンが追い詰められることによって、【贖罪の念】を抱くことを期待していたんでしょう。

しかしマーティンが考える展開通りに行かなかった・・・つまり、人間失格なスティーブンは、どんな展開になっても人間失格な答えしか導きだせないんです。

小さな子供達の心理は?

この考察が正しいとして、15歳くらいのキムと7歳くらいのボブはどんな心理で、マーティンとのゲームを続けていたのでしょうか?

マーティンと出会う前は、ボブは母親アナの愛情を一身に受けていました。

母親は、男の子が生まれると「小さな彼氏」ができた気分になる人が多いです。

また、父親も女の子ができると同じような気持ちになる人が多い・・・。

微妙なバランスを保ちながら、一般家庭ではうまく人生が進んでいくものですが。

このスティーブンの一家は、根本的な愛情が欠落したまま毎日を過ごしていたのでしょう。

子育てが放任主義な面があったり、心からの愛情で教育を行っていなかったのかもしれません。

そんな環境で育ったキムとボブには、姉弟愛よりも前に、「ライバル心」が芽生えてしまったのです。

貧乏などの試練があれば、兄弟は力を合わせて立ち向かいます。

しかし、スティーブン一家は医者家業で裕福なのが仇になってしまった・・・。

裕福ゆえに、姉弟間の愛情が希薄なまま、マーティンに会ってしまったのです。

そしてキムはマーティンに恋をし、ボブはマーティンというお兄ちゃんの教えに真摯(しんし)に答えたのではないでしょうか。

きっとマーティンはスティーブンよりも、ボブに優しかったのでしょう。

なぜなら・・・スティーブンにとってボブは、アナを奪うライバルだったからです。

そしてキムとボブは、親に内緒で「どっちが両親に愛されているのかゲーム」から降りられなくなってしまいます。

小さい子でもプライドがあり、可愛がられている子ほど、負けん気が強い・・・そんな傾向があります。

可愛がられた子供は、生まれながらに「お姫様」で「王子様」なんです。

目から血がでた理由は?

弱りきったボブの目から、ある夜、血が流れているところをスティーブンが発見します。

狂言であるのなら、このシーンはどういう意味?と、つじつまが合わなくなりますよね。

この血が出ているシーンですが・・・実は2つ仮説をたてることができるのです。

1つは、キムがボブを殺させるために、ベットの下に隠れ、眠っているボブに血糊をかけた。

2つは、スティーブンの【幻覚】です。

2つ目の説は、かなり恐ろしいですが、あの時のボブとのやりとり自体がスティーブンの幻覚だった・・・という説。

つまり、スティーブンも生け贄にはボブを・・・と本能で考えていた、ということなんです。

恐ろしい挿入歌にも意味が?

この物語のテーマのように流れる挿入歌「Burn」は、エリー・ゴールディングの作品で、今回はキムを演じたラフィー・キャシディがリメイクでカヴァーしている曲です。

原曲はもっと激しいテンポなのですが、今回の曲調は繊細で不気味。

熱い想いで全てを焼き払え・・・という恋の歌詞ですが、このような曲を15歳くらいの思春期の女の子が、「恋愛に憧れて」本当の意味もわからずに、とうとうと歌えてしまうところが、このキムの【若さの狂気】であります。

つまり、マーティンのためなら、弟を燃やしても構わない・・・という心理をこの曲で表現しているのです。

最後は母親のアナでさえも「子供はまた産めるから」と、ボブへの殺人教唆をします。

自分が殺されないために、女2人はボブを生け贄に差し出したのです。

その教唆をうけてボブを殺したスティーブンに、罪悪感が生まれる訳がありません。

スティーブンにとってボブを差し出したマーティンが神であり

アナにとっては、ボブを差し出して経済的に立ち直ってほしいスティーブンが神

キムにとっては、愛するマーティンが神なのです。

しかし人間は神ではありません。

結局最後には、この物語の経緯を知っているマーティンが、全ての罪悪感を背負って生きていきます。

そしてマーティンの罪を知っているキムだけが、

「私は知っているからね」

と微笑んで去っていった。

最後に

「私が神よ」

と、呟いたように見えた理由なのだと思われます。

マーティンの弱味を握ったことによって、キムがマーティンを支配した場面でもあったのです。

監督ヨルゴス・ランティモスの狙いとは?

今回の映画「聖なる鹿殺し」の監督ヨルゴス・ランティモスは、奇才と呼ばれ、映画「ロブスター」や「女王陛下のお気に入り」でもその奇妙な世界観を繰り広げています。

映画「女王陛下のお気に入り」は実話をモデルにしているので、今回よりはちょっと大人し目の不気味さでしたが・・・。

映画「女王陛下のお気に入り」の斬新考察についてはコチラ。

今回の「聖なる鹿殺し」でもそうですが、このランティモス氏の狙いとは

【テーマは人間の内面の醜悪さであり、純粋であればあるほどにその心の変化は脆く不気味に壊れていく・・・】

と、いう思いなのでは?と、この映画でさらに色濃く感じました。

2000年に入り、M・ナイト・シャマラン監督の映画が大衆に注目されたとき。

シャマラン氏の映画のテーマの多くは

【人間の思い込みによる強さや、実現できる人間力】

でしたが、ランティモス氏は

【人間は思い込みで変化し、脆くも洗脳される。そしてその不気味さは目に見えないように、あなたの隣でも起こっている可能性がある】

と、私たちに警告をしているようにも思うのです。

シャマラン氏も、面白いエンターテイメント映画を作られる方で、私も大好きな映画がたくさんあります。

そしてシャマラン氏の映画は、そのテーマが前面に押し出される瞬間があり、「映画を観たなぁ!」というラストを迎えられるんです。

しかしランティモス氏の場合は、奇妙な鱗でできたようなざらつく迷路に、問題提起だけを残して、置き去りにされたような感覚に陥るのです。

まとめ

今回は空前絶後の謎映画と、話題の映画「聖なる鹿殺し」について、大胆に考察してみました!

この考察にたどり着いてから半年くらい記事にするまでに時間がかかりましたが、その逡巡を繰り返す度に「私の中では、この考察でしかありえないかもしれない」と、思い立ちました。

正しいかどうかは、勿論わかりませんが、色々ある考察の中の1つとして、少しでも喜んで頂けるものになっていたら、嬉しいです。

そして、鬼才ランティモス監督の作品は、なんとなく「?」ではなく、気づくとなんとも恐ろしい、「悪気ない悪」や「人間の言い表せないほどの醜悪さや欺瞞」に満ちています。

諸々の人間の心理の欠片たちを集めて、作られたランティモス監督の映画「聖なる鹿殺し」。

なんともやるせなく、弱者の悲哀を描いた作品でした。

次回もランティモス監督の新作映画で、また蜘蛛の巣のような罠に是非かかってみたい気分になります。

Hits: 67

投稿者:

ロージー 谷

コラムニスト/栄養士 映画評論家・美容家・翻訳家

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です